朝日新聞の土曜日の別刷りの「悩みのるつぼ」というコーナーに「自殺は本当にいけないですか?」という相談が寄せられました。
相談者は無職の50代男性。
自殺はいけないと言われるけれど、自殺を正当化できないか。
後ろ暗いイメージを残さず自殺できないか。
迷惑をかけない方法で自殺すれば、いけないことはないのではないか。
これまで税金は納めてきたし、年金を受け取らずに死ねば、国にも貢献できる。
明るく前向きな自死だと思うがいかがだろうか。
こんな内容の悩み相談でした。
それに対し、社会学者の上野千鶴子氏は、「ひとは社会的な理由からではなく、個人的な理由から自殺します」と前置きし、社会のために自殺することはありえないからあなたは自殺する気はないのだ、と断定。
ならば、この質問の意図は?と話を進めます。
4通りの質問の解釈を示し、「つらい、さみしい、助けてほしいのなら、こんな回りくどい言い方をしないで、正直にそう言いましょう。きっと誰かが受け止めてくれます。自分の弱さを認めることがまず先です」と。
そして最後にひと言、「これだから男はめんどくさいんですよね」とありました。
質問者の質問が本気かどうかは別にしても、一般大衆に知らしめる回答としては、おふざけが過ぎるかもしれません。こんな回答を、朝日新聞はよくも載せたものです。
「自殺はいけないのか?」とは、裏を返せば「なぜ生きるのか?」という問いです。
「自殺はいけないのか?」の問いに「自殺はダメだ」と答えたら、必ず「なぜ自殺はいけないのか?」と問われます。
つまり「なぜ自殺せずに生きねばならないのか?」という問いです。
いかなる事情をとってつけても、前向きな自殺はありえません。
明るい自殺もありません。
自殺を良しとするならば、命は粗末にして良いことになります。
がんばって生きることはいらない、ということになります。
命は大切でないから、他人を殺しても大したことはない、ということになります。
「命を捨てても良い」と答えることは上記のことを認めることにほかなりません。
人それぞれ命の価値が異なるのではありませんから。
すべての人に共通した尊い目的があるからこそ、人命は地球より重いといわれるのだ、と教えられます。
死にたくないのに、死にたいと言って、人騒がせな質問者だ、ということを上野氏は冗談めいて書いているのかもしれませんが、「きっと誰かが受け止めてくれます」というのは無責任発言の常套文句です。
「オレ、死にたいよ」
「そんなこと言うなよ。生きていれば、きっとそのうちいいことあるから」
という慰めと同じです。
みんなが「きっと誰かが受け止めてくれます」と、その男性をたらい回しにしたら、その男性はせっかく自分の弱さを認めて、苦衷を告白したのに、受け止められないまま本当に自殺に走るかもしれません。
人間に生まれて本当に良かった、といえる本当の人生の喜びを知っていただきたいと願うばかりです。